会社が倒産しそうな平社員のはなし

病気から復活したら、今度は会社がピンチでした。

セクハラは意外と気づけない話①

セクハラと聞いて思い浮かべることってどんなことがあるでしょうか。

私場合は、まず思い浮かぶのが相手の望まない、または同意を得ないボディタッチとかになります。

この辺りはもう、わざわざ言及する必要もないくらい社会に浸透してきていますね。

あと、初めて知った時に驚いたのが、相手に恋人の有無や結婚意識があるのかないのか、果ては年齢などを繰り返し問うことなんかもセクハラに含まれるのだということです。

私はまだ、年齢の事を聞かれるのも、結婚の意思があるのかないのかも、聞かれて嫌だなと思ったことはありませんが(そもそも聞かれること自体、あまりないのもありますが)会う度に「恋人できたかー?」と聞いてくるおじさんと話すのは嫌だったなぁと思い起こされます。

 

こうしたことは現在、異性同性問わずセクハラとして扱われるようになってきておりますので、、セクハラに対する意識の低かった私でも、元女上司が社長から、社員の誰かが結婚する度に「お前は結婚しないのか?」と聞かれているのを聞く度に「社長、それはセクハラですよー」と思ったりしたものです。

 

さて、前置きが長くなりましたが、かくいう私もセクハラ経験者です。

しかも会社を辞める寸前までいった、そこそこレベルの被害者です。

なぜ、そんな会社を辞める辞めないの話が出るまでガマンしていたのか?ということですが・・・

 

「自分はセクハラに合っている」という意識が、まったくなかったからです。

 

では、どのタイミングで気がついたのか?ということになりますが、私の場合は

 

他人から指摘されるまで、まったく気づきませんでした。

 

ちなみに、私に「それはセクハラです」と指摘して下さったのは、意外にも異性の上司でした。

彼は彼でパワハラというか、モラハラ気味なところがあったのですが、それはそれ、また機会があればお話しします。

 

上司によってセクハラだと指摘されるまで、まったくセクハラをされているという意識がなかった私ですが、では実際にどんな被害にあっていたのか?

それは、次の記事でお話しします。

 

 つぎの記事はこちら

makkuronekosuke.hatenablog.com

 

 

 

父親に頭を水道へつっこまれた話

それは、私がまだタイの日本人学校に通ってきた頃でした。
私のいた学校では当時「夜寝るときに三つ編みをして、朝学校に行く前にほどいてパーマをかける」という他愛もないおしゃれが流行っていたのです。


先にそのブームに乗ったのは、当時小学1年生だった妹で、妹が1週間くらい三つ編みパーマをかけて出かけていくのがあまりにも可愛かったので、自分もやってみようとマネしてみました。
夜のうちに母親に髪を編んでもらい、次の日の朝、ワクワクしながら三つ編みをほどくと、憧れのふわふわの髪になっていたのです。
その時の嬉しかった気持ちは、今でもしっかり覚えています。

 

その後の出来事が衝撃すぎたばっかりに、ですが。

 

ふわふわパーマで浮かれたまま家を出ようとした、その時です。
一瞬カミナリが落ちたんじゃないかと思うくらいの大音量で、

「なにをしとんだオマエは!!」

という怒鳴り声と共に、後ろから頭を掴まれました。

 

何が起きたか分かっていない私は、そのまま頭を持って引きずられ、洗面台に頭をつっこまれました。
頭上から降ってくる水を後頭部で受けている間、私はさまざまな事を考えていました。
これまで1週間、妹は同じことをしていても怒られなかったのに、なぜ私だけ怒られたんだろう。
今から学校に行くのに、服も肩まで濡れ、なんでこんな目にあってるんだろう。
そんな感じのことだったような気がします。

 

父のあまりの怒りっぷりに、母も呆然としてしまい、止めに入るまでに少し間がありました。
私の幸運は、こういう時に母が見て見ぬふりをするのではなく、ちゃんと止めに入ってくれる親であったことだと思います。

 

当時の事を思い出しても、私の中に強く残っているのは、父に対する恐怖よりも「なんで私だけ?」という理不尽な気持ちだけです。

その証拠に、母が替えの洋服を出してくれ、髪を乾かそうとしてくれるのも聞かずに、髪をゴムで一括りにし、濡れたままの状態で学校へ行きました。
母は「髪はそのままでもいいよ」と言ってくれましたが、泣きながら自分で髪を結んで登校しました。

意地でも父の理不尽に対し、屈したしおらしい態度を見せたくは無かったのです。

あと、確かその日の服が、私が一番好きな服だったから、というのもあった気がします。

 

その後、母と父は話し合いをしたらしいのですが、驚いたことに父は妹も同じ髪型を、しかも1週間も続けていたことに気づいていなかったようです。
それだけならまだしも、父は「妹は次女だからいい」と言っていたことを、後から知りました。
この言葉は、私が実家を出るまで何度も聞いた言葉です。

 

長男だから、長女だから。
よく聞く言葉ではありますが、私にとってそれは、父親に対する信頼と情をいっぺんに失う言葉でした。
家を出て、距離を置いた今でこそ顔を合わせれば挨拶程度の会話はしますが、それでも必要以上の会話はしませんし、私は父の連絡先さえ知りません。


今では父の事は時代遅れのガンコジジイと思って何を言われても気にしない様にしています。
まあ、メッキみたいなものなので、そのうち剥がれるかもしれませんけどね。

ざっくりと自分の人生を振り返ってみた話

ある時、社長が言いました。

「お前は飼ってる猫のためにも、これから営業に異動して頑張っていかないかんな」

 

こうして、猫のために日夜残業を繰り返すブラック社員が誕生したのです。

 

こうなるまでに、色々なことがありました。

むしろ生まれた時からいろいろなことだらけでありました。

そんな私のこれまでを、自己紹介がてらざっくり振り返ってみようと思います。

 

生まれたとき、私はそれは健やかな、3500kg超えベビーでありました。

私の母親は平均より少し小さいくらいなので、とても大変だったに違いありません。

子どもが生まれたらまずすることと言えば、名前付けです。

私も例にもれず、小学校に上がれば同姓同名が学年に3人はいそうな名前を付けて貰いました。

これから私は、この名前背負って生きていくんだ。

そんな、ある日の昼下がりの事です。

子どもの努めたる昼寝に全力を注ぐ我が子に、こそこそと父が近づくのをみた母は

「この人、なんか行動が怪しい・・・」

と思い、柱の陰から父の様子を見ていたそうです。

そんなこととはつゆ知らず、父は周囲を警戒しながらそっとベビーベッドへ近づき、生まれたばかりの娘に囁きました。

 

「アユ・・・」と。

 

これは私の名前ではありません。

ありませんが、父がつけたかったのに姓名判断で却下され、お蔵入りになった名前であります。

この瞬間、母は悟ったそうです。

 

「この子は絶対、父親で苦労するな」と。

当たってほしくない予感は、その後見事に的中し、様々な伝説を残しました。

それはまた、別の場面でお話ししましょう。

とりあえず、小学生の時に流行った三つ編みパーマを試してみたら、激怒した父親に頭をひっつかまれて、そのまま水道につっこまれるような関係だったとだけお話しておきます。

 

さて、そんな私は母親の出身地である奈良県の、とある有名な病院でオギャーと誕生した後は、父親の出身地へ移動、小学生に上がるころには父の転勤でタイへと移り住みました。サワディーカー。

現地校ではなく日本人学校へ通っていたため、別にタイ語が話せるわけでもなく、ただただ肌を茶色く焼いて小学4年生くらいに帰国、そのまましばらくは日本で大人しくしていました。

 

中学2年生の時、これまた急に父の転勤が決まり、今度はアメリカ某所へ移動。

今度は現地校へ通っていたものの、英語なんてさっぱりわからず、週末にある日本語補習校のみが楽しみで生きていました。

この時、私は日本のアニメとゲームにはまってしまい、立派な厨二病患者へと成長してしまったのです。

 

見事厨二病を患った私は、高校1年生に日本へと戻ってきました。

建前上の理由は妹の高校受験に合わせて、という事になっていましたが、実際は私が適応障害を起こして引きこもりに片足をつっこんだからです。

厨二病を患った引きこもりなど手に負えませんので、仕事の残る父を残して、我々母娘は早急に本国へ帰されたというわけです。

 

日本に帰国してからの私は、私と同じように帰国子女ばかりが集まる高校へと編入しました。

ここで適応障害厨二病を癒すはずが、適応障害のみ完治し、厨二病にはさらなる磨きをかけることとなりました。

 

大学に進学し、友人関係は一新されましたが、なぜか周りの厨二病率が高く、私の厨二病が落ち着いたのは大学も4年生になってからでした。

苦節8年、長い病でした。

 

そして就職。

もともと大学院に行くつもりで大学4年の秋までまったく就職活動をしていなかった私ですが、急に父親が「来年で会社を辞めるので、院に行くのは辞めて働け」と言い出しました。

季節外れの就職活動は難航しましたが、11月の暮れにようやく、今の勤め先を見つけました。

ちなみに、父は未だに仕事を辞めておりません

 

就職してからも色々なことがありました。

というか、就職する前に会社の方針がどうのこうので、父が就職先に乗り込んできました。

当社始まって以来の珍事件です。

最初から大旋風を巻き起こした私の労働は、営業部で採用されたのに、なぜか勉強したこともない設計部から始まりました。

社長曰く「最初3年は設計部で図面の勉強をし、3年後くらいに設計と営業の両方を担当する部署に異動して貰いたい」とのこと。

この話を聞いた私はやる気に燃えました。

燃えすぎて、なぜか1年経たずに件の部署へ異動になりました。なぜだ。

 

ただし、いままで設計の勉強をしたことのない人間が1年足らずで作図のイロハを覚えられるはずがありません。

1年半踏ん張ったのちに自分のミス+職人さんのミス+モンスターカスタマーという3件連続問題発生に、なんとセクハラ被害にあい、ついでに電話恐怖症まで発症して営業職を辞め、元の設計部へと戻りました。

その後落ち着くかと思いきや、今度は上司のモラハラにより、また適応障害を発症し、1月間の傷病休暇を取ることになりました。

その間に私がしていたことと言えば、部屋の中を走り回る飼い猫に踏みつけられながら日なたぼっこをすることくらいです。

 

ここで余談ですが、わが社は現在空前絶後の人手不足に見舞われております。

そのため、ここで私が抜けると多少なりとも会社にご迷惑がかかるわけです。

(傷病休暇の間は、奇跡的に仕事が少なかったのでなんとかなりました)

悩んだ末に、私は決心しました。

「今産休で休んでいる〇〇さんが復帰してくるまでは、なんとか頑張ろう」と。

 

こうして会社に戻ってひと月、突然社長から呼び出しがありました。

傷病休暇を取って以降、とくに何かをやらかした記憶のない私は恐怖におびえながら、社長との面談に、そこで一言。

「お前は飼ってる猫のためにも、これから営業に異動して頑張っていかないかんな」

 

こうして、私はよくわからない理屈でまた営業という魔窟に放り込まれ、深夜残業と休日出勤を繰り返しながら日々戦いに身を投じております。

 

これは、そんな私の会社が潰れそうなのを横目に、これまでにあったことをなんとなく整理しようと思って書き始めたブログです。