ざっくりと自分の人生を振り返ってみた話
ある時、社長が言いました。
「お前は飼ってる猫のためにも、これから営業に異動して頑張っていかないかんな」
こうして、猫のために日夜残業を繰り返すブラック社員が誕生したのです。
こうなるまでに、色々なことがありました。
むしろ生まれた時からいろいろなことだらけでありました。
そんな私のこれまでを、自己紹介がてらざっくり振り返ってみようと思います。
生まれたとき、私はそれは健やかな、3500kg超えベビーでありました。
私の母親は平均より少し小さいくらいなので、とても大変だったに違いありません。
子どもが生まれたらまずすることと言えば、名前付けです。
私も例にもれず、小学校に上がれば同姓同名が学年に3人はいそうな名前を付けて貰いました。
これから私は、この名前背負って生きていくんだ。
そんな、ある日の昼下がりの事です。
子どもの努めたる昼寝に全力を注ぐ我が子に、こそこそと父が近づくのをみた母は
「この人、なんか行動が怪しい・・・」
と思い、柱の陰から父の様子を見ていたそうです。
そんなこととはつゆ知らず、父は周囲を警戒しながらそっとベビーベッドへ近づき、生まれたばかりの娘に囁きました。
「アユ・・・」と。
これは私の名前ではありません。
ありませんが、父がつけたかったのに姓名判断で却下され、お蔵入りになった名前であります。
この瞬間、母は悟ったそうです。
「この子は絶対、父親で苦労するな」と。
当たってほしくない予感は、その後見事に的中し、様々な伝説を残しました。
それはまた、別の場面でお話ししましょう。
とりあえず、小学生の時に流行った三つ編みパーマを試してみたら、激怒した父親に頭をひっつかまれて、そのまま水道につっこまれるような関係だったとだけお話しておきます。
さて、そんな私は母親の出身地である奈良県の、とある有名な病院でオギャーと誕生した後は、父親の出身地へ移動、小学生に上がるころには父の転勤でタイへと移り住みました。サワディーカー。
現地校ではなく日本人学校へ通っていたため、別にタイ語が話せるわけでもなく、ただただ肌を茶色く焼いて小学4年生くらいに帰国、そのまましばらくは日本で大人しくしていました。
中学2年生の時、これまた急に父の転勤が決まり、今度はアメリカ某所へ移動。
今度は現地校へ通っていたものの、英語なんてさっぱりわからず、週末にある日本語補習校のみが楽しみで生きていました。
この時、私は日本のアニメとゲームにはまってしまい、立派な厨二病患者へと成長してしまったのです。
見事厨二病を患った私は、高校1年生に日本へと戻ってきました。
建前上の理由は妹の高校受験に合わせて、という事になっていましたが、実際は私が適応障害を起こして引きこもりに片足をつっこんだからです。
厨二病を患った引きこもりなど手に負えませんので、仕事の残る父を残して、我々母娘は早急に本国へ帰されたというわけです。
日本に帰国してからの私は、私と同じように帰国子女ばかりが集まる高校へと編入しました。
ここで適応障害と厨二病を癒すはずが、適応障害のみ完治し、厨二病にはさらなる磨きをかけることとなりました。
大学に進学し、友人関係は一新されましたが、なぜか周りの厨二病率が高く、私の厨二病が落ち着いたのは大学も4年生になってからでした。
苦節8年、長い病でした。
そして就職。
もともと大学院に行くつもりで大学4年の秋までまったく就職活動をしていなかった私ですが、急に父親が「来年で会社を辞めるので、院に行くのは辞めて働け」と言い出しました。
季節外れの就職活動は難航しましたが、11月の暮れにようやく、今の勤め先を見つけました。
ちなみに、父は未だに仕事を辞めておりません。
就職してからも色々なことがありました。
というか、就職する前に会社の方針がどうのこうので、父が就職先に乗り込んできました。
当社始まって以来の珍事件です。
最初から大旋風を巻き起こした私の労働は、営業部で採用されたのに、なぜか勉強したこともない設計部から始まりました。
社長曰く「最初3年は設計部で図面の勉強をし、3年後くらいに設計と営業の両方を担当する部署に異動して貰いたい」とのこと。
この話を聞いた私はやる気に燃えました。
燃えすぎて、なぜか1年経たずに件の部署へ異動になりました。なぜだ。
ただし、いままで設計の勉強をしたことのない人間が1年足らずで作図のイロハを覚えられるはずがありません。
1年半踏ん張ったのちに自分のミス+職人さんのミス+モンスターカスタマーという3件連続問題発生に、なんとセクハラ被害にあい、ついでに電話恐怖症まで発症して営業職を辞め、元の設計部へと戻りました。
その後落ち着くかと思いきや、今度は上司のモラハラにより、また適応障害を発症し、1月間の傷病休暇を取ることになりました。
その間に私がしていたことと言えば、部屋の中を走り回る飼い猫に踏みつけられながら日なたぼっこをすることくらいです。
ここで余談ですが、わが社は現在空前絶後の人手不足に見舞われております。
そのため、ここで私が抜けると多少なりとも会社にご迷惑がかかるわけです。
(傷病休暇の間は、奇跡的に仕事が少なかったのでなんとかなりました)
悩んだ末に、私は決心しました。
「今産休で休んでいる〇〇さんが復帰してくるまでは、なんとか頑張ろう」と。
こうして会社に戻ってひと月、突然社長から呼び出しがありました。
傷病休暇を取って以降、とくに何かをやらかした記憶のない私は恐怖におびえながら、社長との面談に、そこで一言。
「お前は飼ってる猫のためにも、これから営業に異動して頑張っていかないかんな」
こうして、私はよくわからない理屈でまた営業という魔窟に放り込まれ、深夜残業と休日出勤を繰り返しながら日々戦いに身を投じております。
これは、そんな私の会社が潰れそうなのを横目に、これまでにあったことをなんとなく整理しようと思って書き始めたブログです。